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最高裁判所第二小法廷 平成7年(オ)1095号 判決

上告人

甲野太郎

右訴訟代理人弁護士

山嵜進

杉政静夫

被上告人

甲野春子

右法定代理人親権者

甲野夏子

右訴訟代理人弁護士

梅澤幸二郎

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人山嵜進、同杉政静夫の上告理由第二章について

一  本件は、上告人が、戸籍上は同人の嫡出子とされている被上告人との間に親子関係が存在しないと主張し、その確認を求めるものであるところ、記録により認められる本件の事実関係の概要は、次のとおりである。

1  上告人は、昭和六二年一一月一八日、乙山夏子との婚姻の届出をし、同人と同居した。

2  その後、両名は不和となって、昭和六三年二月ころ以降は性交渉もない状態となり、同年一〇月一二日、別居するに至った。もっとも、両名の間には、同年一一月二二日、性交渉があった。

3  上告人は、昭和六三年一二月二〇日ころ、夏子から妊娠したことを知らされた。夏子は、平成元年一月二七日、横浜家庭裁判所に対し、上告人を相手方として夫婦関係調整の調停を申し立て、同年六月二二日、同事件において、上告人と夏子とは当分の間別居し、上告人は、夏子に対し、同年九月から婚姻費用の分担金として毎月七万円を支払うほか、出産費用として同年七月末日限り一〇万円を支払う旨の調停が成立した。

4  夏子は、平成元年七月二七日、被上告人を出産し、上告人は、その直後ころ、右事実を知った。

5  上告人は、平成元年一一月二一日、横浜家庭裁判所川崎支部に対し、被上告人を相手方として嫡出否認の調停を申し立てた。同年調停事件は、平成二年一〇月一五日、合意が成立する見込みはなく調停が成立しないものとして終了した。

6  上告人は、家事審判法二六条二項の期間を経過した後の平成二年一一月一五日、横浜地方裁判所川崎支部に対し、被上告人を被告として嫡出否認の訴えを提起したが、平成三年一月二五日ころ、右訴えを取り下げた。

7  上告人は、平成三年一一月六日、横浜家庭裁判所川崎支部に対し、被上告人を相手方として親子関係不存在確認の調停を申し立てた。同調停事件は、平成四年二月一二日、合意が成立する見込みはなく調停が成立しないものとして終了した。

8  上告人は、平成四年二月二六日、本件訴えを提起した。本件訴えにおいては、当初、夏子がAと不貞を犯したことを原因として右両名に対し慰謝料の支払を求める請求も併合されていたが、原審において、右請求に係る弁論は分離され、平成七年一月三〇日、右請求につき、被上告人は上告人の子ではなく、夏子には不貞行為があったものと認められるが、Aが被上告人の父であるとは認め難いとして、上告人の夏子に対する請求を一部認容し、その余の請求を棄却する判決が言い渡された。

9  上告人は、平成九年八月一一日、被上告人の親権者を夏子と定めて、同人と協議離婚した。

二 被上告人は上告人と夏子との婚姻が成立した日から二〇〇日を経過した後に夏子が出産した子であるところ、右事実関係によれば、上告人は、被上告人の出生する九箇月余り前に夏子と別居し、その以前から同人との間には性交渉がなかったものの、別居後被上告人の出生までの間に、夏子と性交渉の機会を有したほか、同人となお婚姻関係にあることに基づいて婚姻費用の分担金や出産費用の支払に応ずる調停を成立させたというのであって、上告人と夏子との間に婚姻の実態が存しないことが明らかであったとまではいい難いから、被上告人は実質的に民法七七二条の推定を受けない嫡出子に当たるとはいえないし、他に本件訴えの適法性を肯定すべき事情も認められない。

してみると、本件訴えを却下すべきものとした原審の判断は、結論において是認することができる。論旨は採用することができない。

その余の上告理由について

民法七七七条が憲法一三条に違反するものではないことは、当裁判所の判例(最高裁昭和二八年(オ)第三八九号同三〇年七月二〇日大法廷判決・民集九巻九号一一二二頁)の趣旨に徴して明らかである(最高裁昭和五四年(オ)第一三三一号同五五年三月二七日第一小法廷判決・裁判集民事一二九号三五三頁参照)。その余の論旨は、独自の見解に立って原判決を非難するか、又は原判決の結論に影響しない事項についての違法を主張するものであって、いずれも採用することができない。

よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官河合伸一 裁判官大西勝也 裁判官根岸重治 裁判官福田博)

上告代理人山嵜進、同杉政静夫の上告理由

第一章 民法七七七条の違憲性〈省略〉

第二章

第一 原審の判断

一1 本件には、親子関係不存在確認事件(以下、本件という)と不貞行為を原因とする損害賠償請求事件(以下、第二事件という)とが存した。そして、本件及び第二事件とも同一の裁判所の構成による合議体で事実上同時並行的に証拠も全く同一のままに審理され、そのいずれにおいても春子が上告人の子であるかどうかが核心的な争点となった。ところで、父性の有無は間接事実によって認定するほかないところ、本件においては右間接事実は次のとおりである。

つまり、本件の証明対象となった事実は、

【上告人と被上告人夏子とは、別居を開始する前の昭和六三年二月頃から同居は続けていたものの喧嘩が絶えず、性交渉がない日々を送っており、かつ、春子が医学的にみて懐胎したとされる時期には既に別居状態にあり、かつ、別居後の昭和六三年一一月二二日に一度だけ性交渉があったが、それは医学的に把握されている春子の懐胎期から外れた時期であって、春子が上告人の子ではあり得ない】

との事実である。

2 そして、原審は、第二事件においては、右事実を認定し、春子は上告人の子ではないが故に、被上告人夏子には未見の男性と不貞行為があったとして、上告人の損害賠償請求を認容したが、本件にあっては、右の事実認定に際し用いた証拠のうちから、本人供述や供述書等を事実認定の証拠から排除し、その他の証拠のみによっては、父子関係がないとの立証はなされていないと判示し、訴えを却下する第一審判決を是認した。つまり、春子が上告人の子であるかどうかに関する事実の認定において、同一の構成による裁判所が全く同一の証拠に接していながら、本件と第二事件について相反する事実認定を行ったものである。原審が証拠を排除した理由は、法制度としての嫡出推定(民法第七七二条)を排除しうる場合は、「外観上明白な事情がある」場合のほかは、「性殖能力の欠如、血液型の背馳がある場合であるとか、人類学的にみて父子関係があり得ない場合のように、客観的かつ明白に父子関係を否定することができ、かつ、懐胎した母親と夫との家庭が崩壊し、その家庭の平穏を保護する必要がない場合にも、嫡出推定を排除することが可能である」場合であるとする(判決「理由」の三)。そして、「客観的かつ明白に父子関係を否定することができる」というのは何人も疑いを差し挟まないような信頼するに足りる科学的証拠によって立証されることが必要であって、供述調書等を含む諸般の証拠による推認を要する場合には、たとえその証明が証拠の優越の程度ではなく、確信にいたる程度のものであっても嫡出推定を排除することができないと言わなければならないというにある。そして、原判決はそう解される根拠として「嫡出性の推定の有無という身分関係にかかわる事項は、単にその訴訟の当事者の利害に関係するにとどまらず、それ以外の者の利害にも影響することがあり得る事柄であり、また、父子関係の安定という子の福祉にかかわる事柄でもあるから、何人にも納得がいく証拠によって証明することが要求され、虚偽の可能性が絶無ではない供述証拠等を基礎に判断することはできないというべきである」ということを挙げている(判決「理由」の三)。

二 この原審の判断については、次の点が指摘される。

1 原審は、本件が推定されない嫡出子として親子関係不存在確認の訴えを提起しうるための訴訟要件として、「客観的かつ明白に父子関係を否定しうる」ことを措定し、本件はこの訴訟要件に欠けるとして、訴えを却下する旨の第一審判決を是認したと考えられることである。

2 また、原判決は、右の「客観的かつ明白に父子関係を否定することができる」というのは、「証明対象となる事実」の面ではなく、「証明の方法たる証拠」についても制限を加えたものであるとの見地に立脚している。

つまり、前記一1に掲記した本件証明対象事実は、それが証明された場合の外形事実の面からみると、「客観的明白に父子関係を否定しうる」事実関係であることは明らかであるが、原判決は、その証明対象とされた事実を立証する証拠について制限を設け、「客観的明白に父子関係を否定しうる証拠関係」が必要であって、その証拠は「何人も疑いを差し挟まないような信用するに足りる科学的証拠によって立証される」ことが必要であって、供述調書等を含む諸般の証拠による推認を要する場合には、確信に至る程度であっても、嫡出推定を排除することはできないとしている。しかし、裁判官が自由心証主義のもとにおいて、日常的に事実認定において活用している右のような認定手法を本件において使用することを排除しているのである。この原判決の趣旨は更に次の二つのことを意味している。

第一に、事実認定に供されるべき証拠について、科学的証拠とそうでない証拠とを区別し、本件の親子関係不存在確認訴訟においては後者の証拠方法を排除し、証拠力を認めないこと(以下、「証拠方法等の制限」という)。

第二に、本件の父性否定の事実についての証明度は、他の場合よりも科学的証拠によって立証すべきほどの高度のものとし(科学的証明)、通常の民事訴訟におけるより高度の証明を要求したこと(以下、「証明の高度性要求」という)。

しかし、このような原判決の判断の誤謬は、次に述べるとおり、明らかである。

第二 原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令(民法第七七二条、民事訴訟法第一八五条)の違背がある。

一 民事訴訟法第一八五条(自由心証主義)の違背

1 原判決が、右の「証拠方法の制限」、「証明の高度性の要求」を肯定した点は、民事訴訟法第一八五条に違背があり、右違背は判決に影響を及ぼすことが明らかである。

2 「証拠方法等の制限」の違法について

(1) 民事訴訟法は、裁判所は「判決ヲ為スニ当タリ其ノ為シタル口頭弁論ノ全趣旨及証拠調ノ結果ヲ斟酌シ自由ナル心証ニ依リ事実上ノ主張ヲ真実ト認ムルベキカ否ヲ判断ス」と規定している(民訴法第一八五条)。これは、我が民事訴訟法が自由心証主義を採用し、法定証拠主義を採用しないことを宣明したものである。

本件は親子関係不存在確認訴訟であり、人事訴訟手続法(以下、人訴法という)が適用され、かつ職権探知主義が採用されているが(人訴法第三一条第二項)、職権探知主義の下でも自由心証主義が妥当しており、むしろ人訴法においては、民事訴訟法にみられる自白法則(民訴法第一四〇条)等の証明を要しない事実や当事者の態度から相手方の主張を真実と認定すべき諸規定(右民訴法一四〇条のほか、第二五五条、第三一六条、第三一七条等)を排除しているのであるから(人訴法第三二条)、かえって、判断に供される証拠資料は拡大する等、文字通り完全な自由心証主義が支配し、しかも職権によって事案の解明がなされるべきであるというのであるから、本件のような事案は、キャリア裁判官にとって、その自由心証による事実認定に、まさにその本領が発揮されて然るべき筋合いにある。

(2) しかるに、原判決は、その取り調べた全証拠によれば、春子が上告人の子ではないとの確信に至り、被上告人夏子の不貞を認定しながら(第二事件判決)、本件については認定に供しうる証拠を科学的証拠に限定し、その認定の有力な証拠であった供述調書等を排除してしまったのである。原審の判断は、その限りで、自由心証主義を放擲し、証拠方法や証拠力に自己の解釈により法定の制約を加えたものであり、法定証拠主義の枠をはめたことは明白である。しかし、このような民事訴訟法における大原則に対して、その例外を設定するには明文規定が必要である。例えば、現行民事訴訟法は代理権の書面による証明(五二①、八〇①)、調書による口頭弁論の方式に関する規定を遵守したことの証明(調書の証明力、一四七)、疎明のための証拠の即時性の要求(二六七①)を規定している。また、文書提出命令に対する不応諾の真実との認定することを許諾した規定(三一六、三一七)、当事者の出頭、宣誓陳述義務違反の場合の真実との認定許諾規定(三三八)は、裁判所に裁量の幅はあるものの、例外的法定証拠法則に属するのであるが、いずれにしても自由心証主義の例外として明文で規定されている。しかし、それ以外の場合において、苛も民事訴訟(人事訴訟)における事実の認定においては、自由心証主義の原則が支配するのであって、解釈によって、証拠の方法や証拠力に限定を加えることは許されないというほかない。

(3) そうだとすれば、原審は、本件における前記係争事実の存否の判断にあって、その事実認定のための証拠方法について、血液鑑定等の科学的証拠方法のみに制限し、法廷供述、供述書等については、証拠力を認めないとするのであるから、民事訴訟法第一八五条(自由心証主義)に違背するものと言わざるを得ない。

3 「証明の高度性要求」の違法について

(1) 民事訴訟法第一八五条は、「自由ナル心証ニ依リ事実上ノ主張ヲ真実卜認ムベキトキ」は、これを真実と判断し、判決をすべきことを要請している。ところが、原判決は嫡出性の推定の有無における「真実ト認ムルベキ」については、「何人も疑いを差し挟まないような信頼するに足りる科学的証拠によって立証されることが必要であって、供述調書等を含む諸般の証拠による推認を要する場合には、たとえその証明が証拠の優越の程度ではなく、確信にいたる程度のものであっても嫡出推定を排除することができないと言わなければならない」と判示しており、親子関係不存在確認訴訟において嫡出推定を排除し、父性の有無を争う場合の証明(訴訟要件の)について、裁判官による確信というだけでは足りず、より高度の証明を求めることに帰結しており、かつ、右にいう「何人も」というのも、社会における通常人以上のありとあらゆる人という意味に理解され、より高度な証明の程度を求めていることは明らかである。

(2) しかして、右のような原審の立場は、従前、訴訟において考えられてきた事実の証明とは、全く異なるものである。まず、従前の学説をみると、兼子一博士は、裁判所が要件事実の認定をするのは民訴法一八五条所定の自由心証によるのであり、当事者が右事実を証明したといいうるためには「良心的で分別と経験のある裁判官が、主張事実の存否について、具体的確信をもつ」状態にすることが必要であり(兼子一・民事訴訟法体系二五二頁)、その「確信とは、社会の通常人が、日常生活の上で、自ら疑いを抱かずにその判断に安じて行動するであろう程度の心理状態を指す」(同書二五三頁)とされている。また、新堂幸司教授は、「裁判官がどの程度の証拠による裏付けを得たときに確信を抱いてよいか、その程度を一般的に定めることは困難であるが、通常、人が日常生活上の決定や行動の基礎とすることをためらわない程度に真実であることの蓋然性が認められれば、確信を抱いてよく、証明があったとすべきである(むろんその程度は、決すべき事項・問題の性質・価値によって左右されるものである)。けだし、訴訟上事実関係の証明を要するとするのは、実体法を適用して権利義務の存否を判断する―当事者間に紛争解決基準を具体的に定立する―前提になる事実関係の判断を当事者およびひろく社会人の納得できる程度に真実に即したものにし、このような認定を基礎にした裁判をすることによって、その裁判の当事者に対する説得力を高め、裁判に対する信頼を一般的に確立し維持するためであって、通常人の社会生活上の行動の基準となりうる程度の真実の蓋然性がえられるならば、その目的は十分に達成できると考えられるからである。したがって、ここでいう証明とは、自然科学者の用いるような実験にもとづくいわゆる論理的証明ではなく、いわゆる歴史的証明で足りるし、合議制審判における証明では、評議の対象となる事実について、構成裁判官の過半数が証明状態に達すればよいということにもなる」とされ(新堂・民事訴訟法(初版)三四〇頁以下)、更に三ヶ月章博士も「証明における確信とは、反対の可能性が絶無でなければならぬということが要求されるのではなく、社会の通常人が日常生活においてその程度の判断を得たときは疑いを抱かずに安心して行動や見解の基礎となしうるという程度のものであればよい」とされている(三ヶ月・民事訴訟法三八一頁)。

一方、判例に目を転じると、刑事訴訟における事例ではあるが、「元来訴訟上の証明は、自然科学の用いるような実験に基づくいわゆる理論的証明ではなくして、いわゆる歴史的証明である。理論的証明は真実そのものを目標とするに反し、歴史的証明は真実の高度な蓋然性をもって満足する。言い換えれば、通常人なら誰でも疑いを差し挟まない程度に真実らしいとの確信を得ることで証明できたとするものである。だから理論的証明に対しては当時の科学の水準においては反証というものを容れる余地は存在し得ないが、歴史的証明である訴訟上の証明に対しては通常反証の余地が残されている」(最判昭和二三・八・五刑集二巻九号一一二三頁)とされ、民事訴訟においても、因果関係の証明に関しての判示ではあるが、「訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りるものである」(最判昭和五〇・一〇・二四民集二九巻九号一四一七頁)との判例がある。また、下級審ではあるが、「裁判上における証明は科学的証明とは異なり、科学上の可能性がある限り、他の事情と相俟って因果関係を認めて支障はなく、その程度の立証でよい。科学(医学)上の証明は論理的必然的証明でなければならず、反証を挙げ得る限り未だ立証があったと云へまいけれど、裁判上は歴史的事実の証明として可能性の程度で満足する外なく従って反証が予想される程度のものでも立証があったと云ひ得る」(東京地判昭和三〇・四・二二下民集六巻四号七八四頁)とするものがある。

右の学説判例によれば、民事訴訟における証明は歴史的な証明であって、自然科学におけるほど高度な証明を求められていず、確信を持つ基準としても一般社会の通常人の確信以上のものを何ら要求していないのである。

(3) もっとも、村上博己氏は、人事訴訟における証明度は社会秩序的な理由や血縁という身分の社会的重大性から考えて、通常の民事事件における証明度よりも高度の蓋然性を要すると解するべきであるとし(村上「民事裁判における証明責任」一八頁)、嫡出の推定を覆すための証明度は、合理的疑いの余地のない程度の真実蓋然性ほどではないが、高度の真実蓋然性を要するという結論をとることになると述べる(前同・一九頁)。また、石井良二判事も、人事訴訟における証明は同法が実体的真実の発見を担保するために、弁論主義の例外を認め、職権探知主義を採用し、その結果として判決に対世効を認めていることを根拠に、刑事訴訟法における証明と同様の高度の真実性が求められるとの趣旨を述べている(石井「民事裁判における事実証明」民事法廷覚書一九五頁)。原判決は、その判断の根拠として、当事者以外の第三者にも影響することや、父子関係の安定という子の福祉に関していることを挙げているので、これらの学説と機を一にしているところがある。

しかし、これらの論は正当ではない。このことは、端的に伊藤滋夫判事の指摘が妥当するものである。すなわち「民事裁判の場合に高い証明度を要求することがどのような『社会秩序』に奉仕することになるかは、必ずしも明らかでない。請求原因事実について高い証明度を要求することは、原告の権利が実現されるべきものであったとしたら、実現されるべき権利が実現できない結果となるという意味において、あるべき社会秩序に反したことになるし、抗弁事実について高い証明度を要求することは、被告の権利が侵害から守られるべきものであったとしたら、守られるべき権利が侵害された結果となるという意味において、あるべき社会秩序に反したことになる。したがって、村上説のいう根拠は、行政訴訟事件や人事訴訟事件において通常の民事訴訟事件よりも高い証明度を要求する理由として十分なものとは思われない。更に、前述したように、民事訴訟一般における証明度は、民事訴訟において対象となる権利の性質と対立する両当事者の公平という観点から定められたものであり、通常いわれる高度の蓋然性というものが、真実性の確保と当事者間の公平との調和を図る適切な接点として妥当なものであると考えられる。そうだとすると、この証明度をより高いものとすることは、実現されるべき権利の実現を妨げて原告の立場を軽視したり、守られるべき権利の侵害を助けて被告の権利を軽視したりするなどして、当事者の公平を害する恐れがあることになる。そうすると、人事訴訟事件や行政訴訟事件において問題となる権利の性質が、通常の民事訴訟事件で問題となる権利とおよそ異質のものかということが問題となろうが、その点もそう断ずることは困難であろう。なお、おそらく普通の(仮にそこまでいえないとしても、多くの)実務家の感覚としても、行政訴訟事件や人事訴訟事件における証明度が通常の民事訴訟事件におけるそれよりも高度のものが要求されているとは考えていないと思う」(伊藤「事実認定序説―民事判決における事実判断の構造」ジュリスト一〇三一号一一六頁以下)。まさに妥当な指摘ということができる。

(4) また、最高裁昭和三二年六月二一日判決・民集一一巻六号一一二五頁は、認知訴訟(民法第七八七条)に関してであるが、父子関係の証明に関し、間接事実を組み合わせての経験則による推認の手法をとることを認めている。認知訴訟も、直接当事者のみでなく、第三者の利害に絡み、かつ、父子関係の安定による子の福祉の考慮に関係していることを考えると、原判決の見解はこの最高裁判決の趣旨にも反することになる。

(5) しかるに、原審は(右にいう通常人としての)確信に至る証明では足りず、「何人も疑いを差し挟む余地のない」ような科学的証拠による証明を求めるものであって、明らかに前記の確立された証明ないし、証明度の基準よりも高度の基準を設定しているものであって、民事訴訟法第一八五条に違背するというほかない。

4 訴訟事件の真実の証明と実体判決の対象事実の証明間の矛盾

原判決は、親子関係不存在確認訴訟の訴訟要件について、右にみたように「証拠方法等の制限」及び「証明の高度性の要求」の点で、「客観的かつ明白に父子関係を否定しうる事実関係」を求めている。しかし、原判決のいう父子関係を否定しうる事実関係は実体審理の証明のテーマでもある。すなわち、訴訟要件たる事実と実体審理のテーマたる事実が父子関係の否定であるという同じ事実であるというのは、それ自体奇妙で不合理であり、しかも、原判決の論理に従えば、実体審理における証明よりも訴訟要件の証明のほうがより高度な証明を求められることに帰結する。つまり、父子関係の存否という実体審理判断対象たる事実について、実体審理における判断の許容性に係わる訴訟要件において、同一の事実(父性否定の有無)が問題となり、しかも、本案よりもより客観的で明白な証拠を必要とするというのである。このような結論は全くの不合理であり、背理というほかないのであり、かかる点からも原判決は、民事訴訟法第一八五条の解釈の通用を誤っているというほかない。

5 経験則の違背

(1) 原判決には、経験則の違背も顕著であり、ひいては民事訴訟法第一八五条の違背がある。

(2) 原判決は、①上告人と被上告人夏子との性交渉の時期に関する証拠としては、一件記録中、上告人と被上告人夏子の各供述及び各供述書だけであり、これらの証拠は、何人も疑いを差し挟まない信頼するに足りる証拠ということはできないとし(原判決「理由」四)、②当事者の利害だけにとどまらない公益性のある身分関係訴訟においては、一方、当事者の訴訟上の態度によって、立証上その者に不利益な判断とすることは許されないとしている(原判決「理由」五)。

(3) まず、供述証拠等の証拠力ないし、信用性についてであるが、それは具体的な事例によって異なる筈であり、供述証拠そのものが、凡そ常に信用力に欠けるかのような原判決の判示は、常識的には経験則に反している。本件は、春子が上告人の子であるかどうかが激しく争われている事例である。そして、本件における訴訟当事者の関心は、春子の父が上告人か否かにあり、そのためには父たる上告人と母たる夏子との間の性交渉の有無、頻度が重大な利害に絡んでいる。そして、これについて昭和六三年二月頃から同居期間中も性交渉がなく、同年一〇月一二日からの別居後も同年一一月二二日を除いては性交渉がなかったとの事実は、本件係争の経緯・内容からみて、母たる夏子にとって、これが真実に反するとすれば、到底、そのまま容認し難い事実である。これにつき、当事者間に争いがなく、特に夏子がこれを積極的に争っていない場合、その部分の供述や供述書は高度に信用性が高いというほかなく、そのような具体的吟味をせず、これを抽象一般論として虚偽の可能性があるとする原判決の判断は経験則に違背する。

(4) 次に、裁判所の決定にも関わらず、血液鑑定に応じないとの夏子の係争態度についてであるが、これは、通常人を超えて何人の見地に立った理解としても、父子関係の不存在が科学的証拠によって明らかにされることを回避しているからであると強く推認されるものであり、これを否定する原判決の判示は、これまた経験則違背が著しいというほかない。また、原判決は、文書提出命令に応じない当事者に不利益な判断をすることを許容した民訴法第三一七条の規定が人訴法で排除されていることを指摘しているが、これは、規範的に不利益に認定することを排除しているだけであって、裁判官が五感の作用によって、そのような評価をすることを規範的に自省すべしとするものではない。

(5) かような点において、原判決の経験則違背も著しく原判決は破棄を免れない。

三 民法第七七二条の違背

1 問題の所在

既に、第一章において述べたとおり、民法の嫡出推定規定排除の制度(民法第七七二条、第七七四条、第七七七条)には、その合理性に重大な疑問があり、このような制度はかえって、その意図された目的と相反する逆の結論を導くのではないかとの疑問さえある。本項では、これはさて措くとしても、そのような実際上の考慮から、解釈と運用によって、一定の場合に嫡出推定を排除し、「推定されない嫡出子」を肯定するとの運用がなされてきた。下級審判例を除けば、その嚆失となしたのが、最高裁判所昭和四四年五月二九日判決(民集二三巻六号一〇六四頁)、同昭和四四年九月四日判時五七二号二六頁である。この判決を契機として、学説はこの判決の立場を外観説と把握し(この把握は野田宏調査官の判例解説に影響されるところ大である。―最高裁判例解説民事編昭和四四年(上)二九三頁)、かつ、この場合を嫡出推定排除の原則的場合であるとの認識に立脚し、かかる外観がない場合にあって、嫡出推定排除をなしうる場合があるとして、様々な見解が提唱されている。そして、本判決の立場は右のような見解のうち、血縁説ないし家庭破壊説の系統に属しているかのようであるが、それらの学説が果たして原判決のように訴訟要件たる事実を証明する証拠関係についてまで、客観的かつ明白に父子関係を否定しうる関係を求めているかは一つの問題である。そのような問題状況において、橘勝治裁判官は「判例は流動的である」と評し(橘「嫡出推定の排除に関する一考察」民事月報三四巻一号八頁)、右最高裁昭和四四年判決は外観説と結論を一にするものであるが、血縁説を排して外観説を採ったものとみるのは早計であろうとし(同書一九頁)、最高裁が血縁説を承認するかどうかが、今後の判例の動きとして注目されると指摘している(同書二四頁)。一方、その他の実務家の論説をみても、沼辺愛一氏は「私は、従前から外観説ないし外観修正説の立場をとっている者であるが、実務家の一人として、心情的にはかなり折衷説に惹かれるものの、家庭破綻説については、いかなる場合に嫡出推定の除外を認めるかの基準があいまいであり、なお検討を要する点が多く、また合意説については、父の合意が得られない場合について難点があり、今のところなお外観説ないし外観修正説支持の立場に止まるものである」と述べているのに対し(沼辺・山畠ほか演習民法(親族)一六五頁)、水谷博之氏は家庭破綻説が一応妥当であるとしつつ、「家庭破綻説が家庭の平和が存在しない場合として挙げるケース、ことに離婚まで至らないが夫婦としての実体を有していないケースについてのより具体的な類型化が家庭破綻の今後の重大な課題といえようとし(水谷「自然的血縁関係の不存在と嫡出推定の排除」家裁月報三九巻一二号八九頁)、鈴木航兒氏は「基本的には、実質説を基礎にした家庭破綻説により、その具体的基準を明確にしていくことが必要と考える」としている(判例タイムズ七九〇号一二三頁)。このように、実務家の間においても種々の見解が提唱されている状況からも、本件を機縁とし、最高裁判所が「推定されない嫡出子」の意味内容について、より明確な基準を提示することが要請されているということができる。

2 学説判例の状況と問題点について

(1) 学説、判例の進展により、現在、嫡出推定の排除については、概ね次のような考え方に整理されている(諸説については、高木・松倉・条解民法Ⅲ・一四頁、沼辺愛一・前掲一六三頁参照)。

① 形式的な婚姻関係にあっても、外観上同棲が欠如しており、妻が夫の子を懐胎しないことが明白である場合に嫡出推定を排除する考え(以下、外観説という)

この考え方は、右最高裁昭和四四年二判決が採用していると一般に理解されているほか(但し、橘前掲・一九頁は外観説の基準に限定しているとは理解していない)、夫の行方不明(熊本地判昭和三一年八月二八日下民七巻二二一〇頁、東京地判昭和三八年一月二八日判時三二六号二六頁、仙台地大河原支判昭和三八年八月二九日家月一六巻一号一一三頁)、夫が外国滞在・在監等によって長期不在の場合(那覇家審昭和五一年二月三日家月二九巻二号一三〇頁)、大阪高決昭和四一年六月六日判タ二〇九号二〇一頁)等により、実務に定着し、大方の承認を得ているところである(我妻栄・親族法二二一頁、島津一郎・家族法入門一九一頁)。

この考え方によれば明確に言及されていないが、「外観上同棲が欠如している」等の事実が存し、夫の子を懐胎しないことが明白であることを訴訟要件とすることとなろう。

② 個別具体的な証拠調の結果、夫の子ではあり得ないことが客観的に明らかになった場合にも、嫡出推定を排除する考え(以下、血縁説という)

この考え方は、生まれた子が人種的に夫と異なることが顕著なとき(福岡家審昭和四四年一二月一一日家月二二巻二号九三頁)、夫の性殖不能が明らかなとき(新潟地判昭和三二年一〇月三〇日下民八巻一〇号二〇〇二頁、東京家審昭和五八年六月一〇日判時一〇九五号一三五頁)、血液型その他科学的検査の結果、父性が否定される場合(東京家審昭和五二年三月五日家月二九巻一九号一五四頁)等により、実務において肯定される傾向にあり、有力学説がこれを支持している(中川善之助・新訂親族法三六四頁、高野竹三郎・家族法大条四・二〇頁、唄孝一・判例コンメンタール民法七・二一〇頁等)。

この考え方によれば、明確に言及されていないが、父性が否定される客観的明白な事実と父性が否定される客観的明白な証拠の双方、あるいはそのいずれか一方の存在を訴訟要件とすることとなろう。

③ 家庭の平和が維持されていない場合には、血縁説的見地から、嫡出推定を排除する考え(以下、家庭破壊説という)

この考え方は、例えば、東京家審昭和五〇年七月一四日判タ三二二号三四七頁、大阪地判昭和五八年一二月二六日判時一一二九号一三七頁、津家裁四日市支審昭和五九年七月一八日家月三七巻五号六三頁、札幌家審昭和六一年九月二二日家月三九巻三号五七頁等があり、実務上もかなり有力であり、一部学説によって有力な支持を得ているところである(松倉・南山法学八巻三号一頁、梶村太一・ジュリスト六三一号一二八頁)。

この考え方によれば明確に言及されていないが、「家庭の平和が維持されていないとの事実」の存在を訴訟要件とみることは確実であり、それに加えて②の血縁説の述べる訴訟要件もあわせ必要であるとの考えであろう。

④ 嫡出推定除外の根拠を家庭の平和等を保護されるべき子と母とその夫との三者間の合意に求める見解(以下、合意説という。福永有利・別冊判タイNo.8二五二頁以下)

この立場は、右同意を訴訟要件とすることとなろう。

(2) 右に見た従前の学説には次の点に問題がある。すなわち、これらの説はいずれも、嫡出推定規定(民法第七七二条)、嫡出否認方法に関する規定(民法第七七四条)、嫡出否認権行使に関する規定(民法第七七七条)を、「民法における嫡出性推定の制度」として一括して把握した上、その制度趣旨を夫婦間の性生活といった秘事に立ち入って子の嫡出性を争う手段を封じて家庭の平和を維持することと出訴期間を定めて早期に法律上の父子関係を安定させ、子の養育環境を確立することを目的としている点に求めている。その前提から、夫婦間の秘事に立ち入らず、家庭の平和をも破壊しないような事情が認められる場合に、推定されない嫡出子の例外を認めてよいとするのである。そして、

① 外観説は、事実上、離婚状態にある等外観上夫婦同棲が欠如しているときは、家庭の秘事に立ち入らず、かつ、家庭平和は壊れているので、法の制度的基礎が失われていることを指摘している。しかし、民法は、夫に対して嫡出否認の訴えを提起することを認めている、そこにおいては、夫婦間の秘事に立ち入らないとか、家庭の平和を維持することは何ら考慮していないのである。もっとも、民法は夫が子の嫡出性を争いうる期間について、夫が子の出生を知ったときから一年以内に提起しなければならないという制限を設けている(民法第七七七条)。しかし、これは「身分関係の法的安定性を保持する上からの」ものであるというのが判例であり(最判昭和五五年三月二七日判時九七〇号一五一頁)、学説としても、①期間経過により夫が暗黙のうちにその子が自己の嫡出子であることを承認したものとみなされること、②身分的秩序の安定、とりわけ嫡出父子関係をなるべく早急に鑑定するのが子の利益に合致すること、③子の出生した時から多くの時日を経過すると、否認の資料たるべき証拠が散逸し不明確になるおそれがあること、がその根拠として挙げられており(岡垣学・注釈民法(22)の1一五四頁)、家庭の平和の侵害とか夫婦間の秘事の非公開を直接的な目的としているものではない。この点、非嫡出子に対する認知については、父の死後三年を経過したときは、認知の訴えを提起できないとされているが(民法第七八七条但書)、これについても、「身分関係に伴う法的安定性を保持する上から相当」と判示されているところである(最判昭和三〇年七月二〇日民集九巻九号一一二二頁)。要するに、これら期間制限規定は、変動する余地がある身分関係について、争いうる手段に期限を設けて安定をはかろうとする趣旨によるものである。つまり、民法第七七七条は、「家庭の平和の侵害」とか「夫婦間の秘事の非公開」とは別の考慮に基づくものである。つまり、夫に関する限り民法は「家庭の平和の侵害」や「夫婦間の秘事の非公開」についての考慮は存しないか、あっても強力なものではないというべきである。橘判事も指摘しているとおり、最高裁昭和四四年判決が他の場合を排しているとみられるかどうかは問題であり、外観説は狭きに失しているというほかない。

② 次に血縁説についてであるが、民法の嫡出推定規定はそれが立法論として妥当かどうかは暫く措くとして、そもそも真実の父子関係が存しない場合にも、嫡出子として取り扱われる場合があることを想定して割り切っているのではなかったか。この点は村上博己氏が「嫡出推定の実体法的な立場から考えると、通常、婚姻中に懐胎した子が夫の子であるという蓋然性のほか、特に両親の過誤によって生じた非嫡出という社会的恥辱を、子に負わせるのを避けようとする社会秩序的要請があることや、非嫡出子に対する法的差別の緩和の要請が」あると述べているとおりである(村上・前掲一八〜一九頁)。そうだとすれば、いかに父子関係が否定されるからといって、それだけで嫡出推定を排除するのは、あまりにも嫡出推定制度の趣旨に反するというほかない。また、この立場は、家庭の平和や夫婦関係の秘事に立ち入らないという嫡出推定制度の要請に抵触する傾向を持つ。そこで、同説は父性否定が客観的かつ明白に否定しうる場合に限ることを強調する(東京高判平成六年三月二八日判時一四九六号七六頁)。しかし、これを強調すればするほど、前述したとおり民事訴訟法第一八五条に抵触する疑いが濃厚であって、妥当ではない。また、この立場に立つと、本件が正にそうであったかのように、当事者の一人が血液鑑定を拒み、証明妨害ないし職権探知に非協力的な態度に出た場合に科学的証拠、客観的明白な証拠が得られないので、客観的かつ明白な証拠による父性否定はあり得ず、父性を争う者は常に敗訴することとなる。これは、当事者の一方が科学的方法による検査を拒否することで容易に、父性に関する真相解明の結論を左右することができることを意味するものであり、あまりにも不合理であり、公平に悖る。また、苟も確定した父子関係が対世的な効力をもち、客観的な真実に合致すべきであるとすれば、本件のように当事者の一方が任意に裁判所の決定にも従わず、職権探知を妨害している場合に、証拠が明確でないとして、現状を糊塗するのはかえって不当である。

③ 家庭破壊説は、血縁説に家庭が破壊されていることを要件として加えるものであるが、付加した要件は正当であるとしても、もともと血縁説を基礎とするものであるから、血縁説と同様の問題点を残すものである。

④ 合意説の不当は、三者間の合意が得られない場合(本件のような典型例)に妥当し得ないのであるから、嫡出推定制度の制度的不備を補う趣旨からは不十分であるし、三者の合意によって対世的効力を持つ親子関係を左右しうるとすることには躊躇を感ずる。

そしてこれらの諸説に共通する問題点は、更に次の点にある。すなわち、諸説は嫡出推定制度が目的としている「家庭の平和の維持」とか「家庭の秘事に立ち入らない」に着目し、それを侵さないか僅かしか侵さないで父子関係を否定しうるか否かを吟味し、これが肯定される場合には、嫡出推定を排除しうるという論証を行っている。しかし、それは吟味すべき対象を誤っているのではないか。それ以前に嫡出推定がなされる具体的な根拠が何であるかを見極めて、そこから導かれる嫡出推定の前提事実が何かを把握し、その前提事実が該当する事例には嫡出推定が文字通り適用されるが、その前提事実が該当しない例には嫡出推定が排除されるといった観点からの考慮こそが必要なのであって、諸説にはこれが全く欠けているというほかない。つまり、吟味の対象は、個々の事例において嫡出推定の前提となる事実が肯定されるかどうかにあるのではないか。

以上、上告人らは、このような理解に立って主位的な主張をなすものとする。

3 上告人の意見(主位的主張)

(1) 女性が子を懐胎した場合、子と母との関係は分娩によって容易に把握しうるが(最判昭和三七年四月二七日民集一六巻七号一二四七頁)、子と父との関係を把握することは容易ではない。その場合でも、何らかの基準によって子と父との関係を決しなければならない。民法は、父と母が婚姻していない場合は、子と父との関係は決めようがないので、認知制度に委ねた(民法第七七九条)。一方、父と母とが婚姻している場合には、夫婦は同居し、性生活を含む共同生活を営むのが普通であるから、妻が婚姻中に身ごもった(懐胎した)子について、その子の父は母の夫であると考えるのは極めて自然なことであり、現代の婚姻道徳や風習あるいは社会通念から考えて、妻が夫以外の男性と性的関係を結ぶことは、極めてまれな例外的現象であり、通常は妻が懐胎すれば、その子は夫の子であるとみるのが、社会常識に合致する。民法第七七二条第一項の嫡出推定規定は、かかる社会常識に由来するものである(高野竹三郎・基本法コンメンタール民法Ⅲ親族法・相続法(別冊法学セミナー)九一頁、沼辺・前掲一五五頁)。また、民法は夫婦間の同居義務(民法第七五二条)、守操義務(明文はないが肯定される)を法律上の義務としている。単に、社会常識というのみではなくそれを法律上の義務としており、かかる法的義務は遵守されることをも嫡出推定制度の前提となっていると考えられる。

そこで、民法は、婚姻中に懐胎した子は夫の子と推定したのである(第一項)。もっとも、子の出生が婚姻の成立や解消に近接している時には、その子が婚姻中に懐胎したかどうかはっきりしないことがあるので、子の懐胎時期から現実に子供が生まれるまでの期間について判明している医学的知見を加味して婚姻成立後二〇〇日後、婚姻終了後三〇〇日以内に生まれた子は婚姻中に懐胎したものと推定できるのである(第二項)。嫡出推定規定(民法第七七二条)は右のような考慮と認識に基づくものである。そうだとすると、右の法規定の考慮・認識の前提とされた事実が存しないような場合には、嫡出推定は排除されてよいと考える余地がある。そもそも同規定自体は、家庭の平和の保護とか夫婦間の性生活の秘事に立ち入らないといった考慮を直接の趣旨とはしていないからである。その証拠に、民法は、夫が子の嫡出性を否認して係争することを当然に認めているのであって(民法第七七四条)、この嫡出否認の訴訟では、嫡出推定を破る証明が必要とされているだけで、妻が夫の子を懐胎しないことが外観上明白であるとか、客観的に明白であることは何ら必要とされていないのである。それでは「家庭の平和」とか、「夫婦間の性生活の秘事に立ち入らない」とかの考慮は民法規定の奈辺にあらわれているかといえば、法条としては民法第七七四条であり、その争いうる主体を「夫」に限定し、他の者にはこれを認めていないところに現れているのである。この規定は、非嫡出子について、父からの認知がなされても、子その他利害関係人が反対の事実を主張できること(民法第七八六条)に対比し、極めて注目すべき点であって、「家庭の平和」や「夫婦間の性生活に立ち入らない」といった考慮は、ここから導かれるものなのである。一方、民法は夫が子の嫡出性を争いうる期間について、夫が子の出生を知ったときから一年以内に提起しなければならないという制限を設けているが(民法第七七七条)、しかしこれは、前述の通り、変動する余地がある身分関係について、争いうる手段に期限を設けて安定をはかろうとする趣旨によるものである。つまり、民法第七七七条は、「家庭の平和の侵害」とか「夫婦間の秘事の非公開」とは別の考慮に基づくものである。

(2) そうだとすれば、嫡出推定とその排除については、次のように解すべきである。

嫡出推定(民法第七七二条)は、婚姻している夫婦は、共同生活をし、日常的に性的関係を結ぶとの事実を前提として成立しているのであるから、その「前提となる事実」が存在しなければ、この嫡出推定は働かない。この「前提となる事実」(この事実の存在が訴訟要件であるということになる)というのは、外部的に明白な事実とは限らない。最高裁の前記昭和四四年判決の場合には、たまたまその事案が長期に別居しており、夫と妻が性的関係を結んでいず、嫡出推定の前提となる事実が存在しないことが外部的に明白であったというに過ぎない。同判決自体は単に、事実上離婚状態にあり、嫡出推定がなされるべき前提事実が欠けているから、嫡出推定が判決されることを述べただけで、それが外観上明白であることに特に意味があるとする判示は全くしていないのである。つまり、昭和四四年最高裁判決は、同棲がない場合には、嫡出推定規定の前提事実、つまり、「夫婦は共同生活をし、日常的に性的関係を結ぶとの事実」が存在しないが故に、嫡出推定を排除しているものであって、そのことが外形上明白である(ひいては、夫婦の秘事に立ち入らない)が故に嫡出推定を排除しているものではない。そして、例えば、夫と妻とが共同生活をしていても、家庭内別居の場合のように、嫡出推定の前提となる性的関係を長期に結んでいないこともあり得る。その場合にも、嫡出推定の前提となる事実(「夫婦が日常的に性的関係を結ぶとの事実」)がないという点では別居している場合や事実上離婚している場合と同じであり、そうである以上、かかる場合になお、嫡出推定を維持しなければならない理由はない。

従前の学説は、血縁説にしても、家庭破壊説にしても、外観説が基本にあり、同説が措定したような外観的に明白な事例ではない場合には、これに代えて客観的かつ明白に父性が否定され得る場合であることを要求する。しかし、前記の嫡出推定の前提となる事実がない場合には、それが外観上明白か否か、客観的に明白か否かとは無関係に、父性を否定する係争が許容されるべきである。そして、この前提事実の欠如こそが、推定されない嫡出子に関して親子関係不存在確認の訴えを提起しうる訴訟要件であり、その訴訟要件が肯定される場合に、父性を具体的に否定しうるかどうかが実体審理における証明のテーマである。その証明にあたっては、客観的明白であるとか何人も疑問を持たない科学的証拠によってのみ証明されねばならない訳ではなく、職権探知主義の下で裁判官が通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持てばよいということになろう。

(3) かかる見地に立って、本件についてみるに、第一審判決が認定しているとおり、上告人と被上告人夏子は、昭和六三年二月以降から上告人の腰痛や被上告人夏子の体の不調なども重なり性交渉が途絶え、会話がなくなり、会話をすれば喧嘩を繰り返す事態となり、互いの意思疎通さえ困難な状態となり、かつ、同年一〇月一二日からは別居するに至っており、しかも、昭和六三年一一月二二日の一度を除いて、性的関係を結んだことはないとの事実は証明されている(上告人の供述、供述書。また、被上告人夏子はこれを自認しており、本件の争点、被上告人夏子の係争態度からみて、同人が真実に反する答弁をしたとか、虚偽の供述をしたということはあり得ない)。そして、右の証明された事実によれば、夫婦は共同生活をしていても性的な関係を八ヶ月も結んでいず、その後も別居してしまっているのであるから、嫡出推定をなすべき前提事実(夫と妻が性的関係を結んでいた事実)が欠けているので(これが訴訟要件である)、上告人は、親子関係不存在確認訴訟を提起し得るのであり、かつ、原審が不貞行為による損害賠償請求を肯定していることからも明白なとおり、父性を否定する事実を証明したのであるから、上告人の請求は容れられて然るべきであった。結局、これと異なる見地に立った原判決は、民法第七七二条の解釈を誤っており、違法であるというほかない。

なお、佐藤義彦教授は、「民法第七七二条は、懐胎時期の推定(第二項)、肉体関係の推定および因果関係の推定(いずれも第一項)の三つの推定から成り立っているところ、嫡出否認の制度は、現在では、因果関係の推定を破る方法として理解するのが妥当であり、他の二つの推定は、必ずしも嫡出否認の方法による必要はなく、任意の方法でこれを被ることが認められる。それゆえ、母の事実上の離婚または長期別居中に懐胎された場合、同居はしていたけれども懐胎期間中に母が夫と肉体関係をもたなかった場合ないし夫が性交不能であった場合などは、いずれも肉体関係の推定を破る場合に該当するから、嫡出否認の手続によらずとも、夫が子の父でないことを主張できる」と述べられている(佐藤「嫡出推定及び範囲」同志社法学三二巻三・四号二二三頁以下)。同教授の見解は、上告人の民法七七二条の理解とは異なっているが(前述のとおり、上告人は嫡出推定の趣旨は、夫婦は日常、性的関係を結ぶことを一つの前提にしているのであるから、その前提事実がない場合には、推定は排除されるというものである)、嫡出推定に関する諸規定を包括して把握するのではなく、民法第七七二条を直視して、「肉体関係の推定」を読み取り、その事実がない場合には推定が排除されるとするものであり、おおむね上告人の主張に沿い、結論も一致すると思われ、大いに多とすべきものがある。そして、同教授の見解によれば、本件は嫡出推定が排除される場合に該当することは明らかである。

(4) かくして、本件は嫡出推定が排除される場合であるが、原判決は第一審判決でさえ事実認定していた「上告人と被上告人夏子には、昭和六三年二月頃以後性的関係がなかった」との事実を認定してさえいない。それは、従前の学説的立場に立てば、摘示不要の事実であると考えたからであろうが、問題の本質を看過し、まったく不当であり、原判決は民法第七七二条の解釈を誤っているというほかない。

4 民法第七七二条の解釈に関する予備的主張

(1) 上告人は、前記3において民法第七七二条に関する上告人の考えを述べた。上告人はこれをもって、民法第七七二条の正当な解釈であると信ずるが、仮に然らずとすれば、従前の学説や同旨の下級審判決の見地によっても、本件においては嫡出推定は排除されるべきことを主張するものである。

(2) 本件の父性に関して、問題となっている争点事実(冒頭に提起)を再度掲記すれば次のとおりである。

【上告人と被上告人夏子とは、別居を開始する前の昭和六三年二月頃から同居は続けていたものの喧嘩が絶えず、性交渉がない日々を送っており、かつ、春子が医学的にみて懐胎したとされる時期には既に別居状態にあり、かつ、別居後の昭和六三年一一月二二日に一度だけ性交渉があったが、それは医学的に把握されている春子の懐胎期から外れた時期であって、春子が上告人の子ではあり得ない】

(3) そこで、本件において右事実を実体審理によって解明することが、嫡出推定制度の目的とした家庭の秘事に立ち入ること、家庭の平和を害することになるのかどうかをまず吟味する。

① 本件の具体的事案において、右の証明対象事実のうち、次の事実は当事者間に争いがない。すなわち、昭和六三年二月頃同居を続けているものの、上告人と被上告人夏子には夫婦にあるべき性的交渉がなく、喧嘩は絶えなかったこと、昭和六三年一〇月一二日の別居以後も昭和六三年一一月二二日の一度を除き、およそ性的交渉はなかったことである。そして、本件で当事者が争っている唯一の争点は被上告人春子が上告人と被上告人夏子との右昭和六三年一一月二二日の性交渉によって懐胎されたものであるかどうかの一事である。

そこで、本件にあっては、争いのない事実がそのまま認定しえれば、家庭における夫婦の秘事に深く立ち入ることはなく、性交の有無・頻度を確定しえるのであり、かつ、あとは確定しえた性交により、春子を懐胎しえるかどうかという医学的証拠資料と医学的知見にもとづく推認によって父性の有無に関する事実の審理が可能な事例ではないだろうか。

② まず、本件のような職権探知主義の支配する人事訴訟において、右のような争いのない事実は如何に評価されるのであろうか。本件は親子関係不存在確認訴訟、すなわち、人事訴訟であるから、職権探知主義が支配し(人訴法第三一条第二項)、自白法則(民訴法第一四〇条)が排除されている(人訴法第三二条)。しかし、それは当事者が争わない事実と異なる認定をしてはならないという規範的な義務を排除しているものであっても、当事者が争わない事実について、職業裁判官が自由心証作用、経験則を駆使して、同一の認定をしてはならないとか、当事者が争っていないということを事実認定の上で考慮斟酌してはならないということではない。これをあたかも考慮斟酌してはならないとの規範的な義務があるかのように判示する原判決の思考は全く誤っている。すなわち、既にのべたとおり、本件における前記の性交渉の経過は、本件の争点からみて核心部分に関しており、もしも、それが真実と異なるということであれば、必ず否認してかかるような性質の事柄である。そのような性交渉の存否につき、当事者が自己の不利な事実を認めて争わないという係争態度は、職権探知主義が採られ、自白法則が排除された完全な自由心証主義の下でも、有力な証拠あるいは事実認定の資料であることに疑問の余地がない。

そして、本件では右のような当事者間の係争状況からみて、夫婦同居の間に性交渉があったかなかったか、具体的に、どの程度であったかという家庭の秘め事について、当事者が応酬し種々の証拠によって総合認定するといった詳細な実体審理に踏み込むことなく審理し、認定し得る事例であって、かかる意味で家庭の秘事に立ち入る度合は少ない。また、家庭の平和の侵害の点についても、本件係争時点では既に夫婦は別居中であり、かつ、被上告人夏子と被上告人丙川とは被上告人春子を連れて、一つの家庭であるかのように宿泊旅行に出掛け、かつ、被上告人春子は被上告人丙川を「お父さん」と呼び、かつ、被上告人丙川もこれを受入れ、同女を抱き上げ、かわいがる等しているのであるから、上告人らの家庭は完全に崩壊してしまっていること、これまた明白である。そうだとすれば、本件においてば、従前の学説が嫡出推定を維持する根拠としている家庭の秘事に立ち入る度合は少なく、かつ、保護されるべき家庭も破壊されて存在しないのである。

③ 一方、唯一、当事者が争っている争点、つまり、昭和六三年一一月二二日の性交渉によって、被上告人春子が懐胎したのかどうかについては、純粋な医学的知見のあてはめにかかわる問題である。そして、今日確立された医学的知見、医療電子機器(超音波検査)や担当医の診断によれば、疑問の余地なく否定されるのであって、それらの証拠は、血液型の検査等の証拠に比べて直截なものではないかもしれないが、科学的で客観的な証拠であることは明らかである。

④ しかも、原判決のいう客観的で明白な証拠方法である血液鑑定については、被上告人らは何らの正当かつ合理的な理由もなく、これを拒否して応じていないのであるから、右の証拠をもって父性の否定を行っても何ら不都合はない。かつ、右の被上告人の係争態度は、規範的に立証責任を転換すべきであるとか、証明妨害として被上告人に不利に認定すべきかどうかはさておき、少なくとも職業裁判官が経験則を働かせ、自由心証作用に基づきこれを考慮することは許されるし、被上告人の血液鑑定の回避的態度はこれに応じることにより、父性の否定されることが動かし難いので、これを回避していると推論することが、経験則に合致する。被告が採血等に協力しないために、鑑定結果が得られない以上、科学的裏付けなしに親子関係が存在すると推認しても、不相当であるとはいえない(東京高判昭和五七年六月三〇日家月三五巻一〇号六三頁、判タ四七八号一一九頁)。本件はまさに、そのような例であり「止むを得ない結論として支持」されるところである(中川高男「血液型の背馳と父子関係」判タ七四七号一九一頁)。

⑤ そうだとすると、本件においては、嫡出推定制度が保護していると理解されている家庭の秘事非公開、家庭の保護のいずれにも抵触していないと言わざるをえないのである。

(4) そして、本件においては、父性否定の事実は外観上明白である。そもそも真実には多年にわたって別居しているような事例で、相手がその事実を争った場合には、これを審理し、色々な証拠による推認によって事実を確定することが余儀なくされる筈である。すなわち、「嫡出推定の基礎たる夫婦同棲の欠如していることが、外見上明白な場合といっても、右のような外観的事実の存否は、何らの証明をまたずに明白であるというようなものではなく、やはり証拠調をまって判明する事柄であるから、結局右にいう夫の子を懐胎しえないことが外見上明白な場合とは、夫婦間の秘事を少なくとも直接的には公開しないで立証しうるものであるかぎり、ひろくその証拠調の結果を総合してはじめて判明するような場合をも包含するものと解することが相当である」(大阪高裁昭和五一年九月二一日判決・判時八四七号六一頁以下)とすべきである。そして、本件はまさにそのような審理の結果として、

【上告人と被上告人夏子とは、別居を開始する前の昭和六三年二月頃から同居は続けていたものの喧嘩が絶えず、性交渉がない日々を送っており、かつ、春子が医学的にみて懐胎したとされる時期には既に別居状態にあり、かつ、別居後の昭和六三年一一月二二日に一度だけ性交渉があったが、それは医学的に把握されている春子の懐胎期から外れた時期であって、春子が上告人の子ではあり得ない】

との事実が明らかとなったものである。そして、右の事実は、「夫の子を懐胎しえないことが外見上明白な事実」であることは否定しうべくもない。

この点の原判決の誤謬は、客観的明白との要件を証明対象たる事実のみではなく、証拠方法に求めている点にある。そうではなく、あくまで証明対象たる事実に関する問題であるというほかない。そして、右の事実は客観的明白性の見地からみても、少なくとも、民事訴訟上の証明について、「経験則に照らして全証拠を総合検討し」、その事実の存在について、「高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りるものである」との見地に立つかぎり、肯定されるものである。

(5) そうだとすれば、外観説、血縁説、家庭破壊説(本件で家庭は破壊しており、保護すべき家庭は存しないことは明白である)のいずれの見地によっても、本件においては嫡出推定が排除され、かつ、父性否定の証明がなされていることは明白である。

5 かくして、原判決がかかる点を看過し、民法第七二二条に独自の解釈を施した上、上告人の請求を容れなかったことは、同条の解釈、適用を誤っているということができ、かかる点からも原判決は破棄を免れないと思料されるのである。

第三章 事案解明義務違反とその不利益処分又は制裁について

第一 上告人が原審において、被上告人らの血液鑑定を否定した行為に対し、「被控訴人が父子関係の存否に関する鑑定嘱託の申請に協力しないことが証明妨害であり、主観的立証責任が転換されるべきである。」と主張したが、右主張を認めなかったのは、最高裁判所平成四年一〇月二九日判決・民集四六巻七号一一七四頁、判例時報一四四一号三七頁、判例タイムズ八〇四号五一頁に違反しているほか、民事訴訟法の事案解明義務違反とその不利益処分又は制裁についての解釈適用を誤った違法があり、右違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから原審判決は破棄されねばならない。

第二 原判決は上告人の右主張を認めない理由として

「たしかに、前述のように嫡出推定の排除のための立証に何人も疑いを差し挟まないような信頼に足りる証拠を要求すれば、通常血液鑑定に頼らざるを得ないことになるが、親子関係不存在確認の調停が成立せずに訴訟に至った事案においては、血液鑑定への相手方の協力が期待し難いことが多いものと思われる。しかし、前述のとおり当事者の利害だけにとどまらない公益性のある身分関係訴訟においては、一方当事者の訴訟上の態度によって、立証上その者に不利益な判断をすることは許されない。」と述べている。

第三

一 原判決は、嫡出推定の排除のための立証には通常血液鑑定に頼らざるを得ない事実を認めながら、人事訴訟には、職権探知主義が採られていることを事実認定の場面に誤って適用したものである。

即ち、弁論主義は訴訟資料の蒐集を当事者の権能且つ責任とするものであり、職権探知主義はそれを裁判所の権能且つ責任とするものである。

従って、弁論主義と職権探知主義は本来主張の面に関するものなのである。

他方、証拠調の面では弁論主義では職権証拠調は禁止されるが職権探知主義では職権証拠調の余地がある(人訴法一四条三一条)という差異がある。

そして、人事訴訟に職権探知主義が採られる根拠は、公益的要素の強い人事訴訟手続では当事者の主張に拘束されずに、できる限り真実を発見する必要があるからだとされる。

従って人事訴訟にはより強く真実義務が認められるべきである。

二 本件においては、何人も疑いを差し挟まないような信頼に足りる証拠を要求すれば、通常血液鑑定が必要であるにもかかわらず、被上告人らの血液鑑定を否定した行為は真実発見という事案解明のための唯一絶対の証拠方法を排除したもので、事案解明義務に違反していることは明らかである。

原判決のように、証明責任を負う当事者に証明を求めることが不可能である状況があるにもかかわらず、一方で相手方にその証明手段を回避させて不利益を課さず、他方で機械的に証明責任を負っているからということだけで証明責任に従ってこの者を敗訴させるということは、証明責任の成り立つ基盤を危くし、憲法三二条の裁判を受ける権利を不当に侵害することになる。

第四 よって、証明責任を負わない当事者に事案解明義務を課しそれに違反した者には、主観的に立証責任が転換されるべきである。その要件は、

一 証明責任を負う当事者が自らの権利主張を具体的真実により理由づけるにあたり、その主張が一応納得しうるものであることを示すこと、

二 この者が真実の証明を可能にする事実経過の外にいるために、事実関係を解明することができず、そのことにつきその者を非難できないこと、

三 証明責任を負っていない相手方当事者にとり事案解明が容易であり、事案解明が必要且つ期待可能であること、

ととらえるべきである(講座民事訴訟⑤証拠・石川明・証拠に関する当事者権七頁以下)。

事案解明義務違反の効果としては、反駁可能な、不利益な事実が擬制されることである。

本件でも、一の要件については、既に別件東京高等裁判所平成五年(ネ)第四四五一号の二損害賠償事件では、上告人が春子の父でないことが確信に至るまで立証されている(証拠は両事件共通である)。

二の要件については、被上告人らの血液の採集は、法律上の直接強制が不可能な日本法制のもとでは、上告人には不可能であり、そのことを非難できない。

三の要件については証明責任を負っていない被上告人らにとって、血液の提供は容易であり、血液の提供により事案解明は一〇〇%期待可能である。

このように証明責任を負わない相手方に事案解明義務を認めることは、弁論主義にも職権探知主義にも反するとはいえないし、証明責任が働く余地がなくなるともいえない。そして事案解明義務の理論を認めると、結果的には、証明責任を負わない相手方に、事案解明義務が認められる範囲内で証明責任を転換するのと同じことになる。

第五 この論点については、前述したように、伊方原発訴訟に関する最高裁判所平成四年一〇月二九日判決・民集四六巻七号一一七四頁、判例時報一四四一号三七頁、判例タイムズ八〇四号五一頁がある。同判決では

「原子炉設置許可処分についての右取消訴訟においては、……(中略)……被告行政庁がした右判断に不合理な点があることの主張、立証責任は、本来、原告が負うべきものと解されるが、当該原子炉の施設の安全審査に関する資料をすべて被告行政庁の側が所持していることを考慮すると、被告行政庁の側において、まず、その依拠した前記の具体的審査基準並びに調査・審議及び判断の過程等、被告行政庁の判断に不合理な点のないことを相当の根拠、資料に基づき主張、立証する必要があり、被告行政庁が右主張、立証を尽くさない場合には、被告行政庁がした右判断に不合理な点があることが事実上推認されるというべきである」としている。

右判決は立証の困難な事件について、主張立証責任は原告にあるとの考えを維持しながら、当事者間の具体的公平を図るという基本的な考え方のもとに、推定の理論の場において原告の立証を軽減したものと理解してよく、この考え方は基本的に正当なものとして、同種事件の今後の審理判断に大きな影響を与えるものと思われる(伊藤滋夫・事実認定序説8ジュリスト一〇二九号・一四一〜一四二頁)と指摘されている。

右最高裁判決の法理は、本件においても妥当するというべく、原判決は右判決に反している。

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